久松山と太閤ヶ平 ~秀吉による兵糧攻め

最終更新日:2023年10月2日

                                         元鳥取地方検察庁検事正 杉山徳明 

 鳥取駅から県庁や検察庁がある中心市街に向けて北に進むと、台形型の山が迫ってくる。鳥取市のシンボル、久松山(きゅうしょうざん)(標高263m)である。かつて鳥取城があり、堀や何層にも組まれた石垣があり、見上げれば山頂付近にも石垣を確認できる。麓から急な山道を登ると30分余りで登頂することができ、休日には登山を楽しむ市民で賑わう。山頂付近は石垣や急峻な斜面で囲まれ、南は鳥取市の街並み、北は鳥取砂丘やその先の日本海が見渡せ、西は鳥取平野を流れる千代川(せんだいがわ)、日本最大の池である湖山池のほか、晴れた日には遠く西日本を代表する名峰大山(だいせん)を眺めることができる。かつて防御性の高さ、山頂からの優れた眺めから、「日本(ひのもと)にかくれなき名山」と評された。
 久松山の東は山並みが続き、約1.5km離れた、電波塔の立つ山が太閤ヶ平(たいこうがなる)(本陣山)である。麓から舗装道路が続き、地元住民が日々の散歩を楽しんでいる。天正9年(1581年)、豊臣秀吉(当時は羽柴姓)が鳥取城を攻めた際に本陣を構えたことから、後にこの名称が付された。
 当時、鳥取城を守ったのは、中国地方の雄、毛利氏から派遣された吉川経家(きっかわつねいえ)であった。経家は、この城に入り、鉄壁の防御を誇る天然の要害であると確信したに違いない。一方、兵力に勝る秀吉が採ったのは兵糧攻めであった。経家の籠城は数か月に及び、餓死者も出て、経家は城を明け渡すことを決意した。秀吉は、経家を助命する意向を示したが、経家はこれをいさぎよしとせず、自ら切腹した。
 太閤ヶ平には、当時の土塁や空堀が残っており、久松山を間近に臨むとともに、当時も重要な補給路であった千代川河口の鳥取港から久松山に続く道筋を一望できる。秀吉は、この景色を見て、周囲に兵を布陣し、孤立させれば落城は待つばかりとの心境に至ったのであろう。急峻な城を包囲してしまえば、物資や人員の搬入の阻止は容易であった。鉄壁の防御を誇る城は、孤立すれば補給が絶たれるという弱点を抱えていた。兵力の損失を避け、確実に勝利を導くために兵糧攻めの策を講じた秀吉の智略、周囲の敵を間近に見ながら支援を待ち続け、最後は城内に残る兵の命を救い、自ら切腹を選んだ経家の胆力、決断力に感服するばかりである。
 400年以上前、数千人の兵が対峙した久松山と太閤ヶ平の間は、比較的高低差の少ない尾根道を30分余りで歩くことができる。現在、この道を歩く人は少なく、手つかずの自然に囲まれている。麓の渓谷では、初夏の暗闇に無数のホタルが舞う。

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