鳥取の東照宮

                                         元鳥取地方検察庁検事正 岡 俊介 

 鳥取県庁から徒歩15分ほどのところに樗谿(おうちだに)公園という緑豊かな公園があり、ここに古い神社が建っている。この神社の鳥居に「東照宮」と書かれた看板が付いている。「なんで鳥取に東照宮?」と不思議に思ってちょっと調べた。
 樗谿公園付近は古来神域とされ、かつて王寺という寺院があって、付近は「王寺谷(おうじだに)」と呼ばれていた。
 江戸幕府成立後の1632年、当時3歳の池田光仲という殿様が備前岡山から因州鳥取藩に転封になる。鳥取東照宮の創建は1650年。若い光仲は、家康の権威を後ろ盾に、内外にその血縁と自身の権威を示したものと考えられている。光仲の祖父池田輝政は尾張出身で、信長、秀吉、家康に順次仕え、家康の次女督姫を娶った。つまり光仲は家康の曽孫に当たるわけで、家康の威光をフルに使える立場にあったのだろう。それもあってか光仲は藩主権力の確立に成功し、以後、鳥取東照宮は鳥取藩の武家の象徴として、その精神的支柱の役割を果たしたという。
 因みに光仲の奥方茶々姫は、家康の10男紀州藩主徳川頼宣の長女である。鳥取藩と徳川家の関係はその後も継続し、最後の鳥取藩主池田慶徳は徳川慶喜の異母弟であった。
 明治元年の神仏分離令によって、鳥取東照宮は所領の多くを失い、明治7年には、名称も樗谿神社に変更している。
 明治維新以降、禄を失った多くの士族が開拓のため北海道に渡ったが、鳥取でも、明治18年ころに、鳥取藩士族105戸を中心とした人々が北海道空知郡岩見沢村(現岩見沢市)に移住した。
 明治33年、彼らは、樗谿神社を分霊し、開拓地に「鳥取神社」を勧請した。過酷な自然の中で生きていくため、自分たちの心の支えになるものを欲したと思われる。
 これらの事実は、日本史の中で普通にみられるありきたりな事柄かもしれないが、逆に言うと、私たちの祖先は、激動する時代の中で、当たり前のように、生き残るために工夫し、必死であがいてきたのだということを教えてくれる。その末裔である我々も、変化する時代を前にただ立ちすくんでいるわけにはいかないだろうと思わせてくれるのである。
 樗谿神社は、鳥取市街地のすぐそばにありながら、高い木々に囲まれ、古の神域らしい雰囲気がある。ここを訪れると、時代の激流の中で、この神社を心の支えとして生きた人々の魂に触れ、その勇気を分けてもらえるような気がする。鳥取来訪の際には是非訪れていただきたい場所である(ただし、クマが出るらしいので鳴り物の携帯をお勧めする)。

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