荒木又右衛門と鳥取

                                      元鳥取地方検察庁検事正 片山 博仁 

 初夢を縁起のよい順に並べた「一富士、二鷹、三茄子」、これがそれぞれ富士の裾野で父の仇討ちを遂げた曽我兄弟、主君(鷹の羽の家紋)の仇を討った赤穂浪士、伊賀上野鍵屋の辻で名(仇)をなした渡辺数馬とその姉婿の荒木又右衛門、世にいう日本三大仇討ちをもじったものであることはよく知られている。
 しかし、赤穂浪士が、今なお映画やテレビ、小説等に度々取り上げられているのに比べ、鍵屋の辻の又右衛門の方は、かつて芝居、講談、映画にと、大衆の絶大な人気を得ていたのに、今やゆかりの鳥取でさえ、意外にも又右衛門について書かれた本格的小説など本屋どころか図書館に行っても見当たらない。
 「決闘鍵屋の辻」の発端は、寛永7年(1630年)の夏、備前岡山の城下において、渡辺数馬の弟で藩主池田忠雄の小姓源太夫(17歳)が、二歳年上の河合又五郎に斬り殺されたことに始まる。一見若輩同士の争いに過ぎないように見えたが、又五郎が出奔し、こともあろうに大名とは犬猿の仲の旗本屋敷に逃げ込みかくまわれてしまったことで様相は一変、大名対旗本の意地と面子のぶつかりあいへとエスカレートしていく。又五郎の引渡しを強硬に求める池田藩側に対し、引き延ばしを図りうやむやにしてしまおうと画策する旗本側、そんな最中に藩主忠雄が急死する。すると、それまで両者の調停に手を焼いていた幕府は、この機をとらえ、備前の池田と鳥取の池田を入れ替える国替えを断行する一方で、又五郎を江戸所払いにすることで争いに終止符を打とうとした。
 しかし、数馬は、弟源太夫の仇を討つことが亡藩主の遺命であるとして脱藩し、当時大和郡山藩の剣術指南番をしていた新陰流の達人、義兄又右衛門に仇討ちの助成を請い、又右衛門も承諾し藩を辞した。こうして、数馬、又右衛門ら一行は、名うての槍豪、剣客らに守られて身を潜めている又五郎の追跡を開始し、半年余り後の寛永11年11月、伊賀上野「鍵屋の辻」において、ついに死闘の末、本懐を遂げた。又右衛門らはその後上野藩の預かりの身を解かれ、元々家臣であった数馬はもとより又右衛門らも池田藩に召抱えられることになり、寛永15年8月、亡藩主の遺志を果たした忠臣、それを助けた義人として、藩あげての歓呼の声に迎えられ鳥取入りした。しかし、それもつかの間、わずか2週間余り後に又右衛門は突然急死してしまう。
 このように見ていくと、「鍵屋の辻の仇討ち」は、主人公始め登場人物の魅力、緊張感、スケールのいずれを採っても忠臣蔵のそれと遜色はなく、多少の身びいき分を差し引いてもなお前述のような大差がつくのには合点がいかない。現代の一流作家、監督による長編小説化、映画化を是非期待したいものである。

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