因幡の国

                                      元鳥取地方検察庁検事正 野上 益男 

 鳥取県は因幡と伯耆の国からなっている。県東部は因幡の国で、そのほぼ中央を中国山地から日本海に千代川が流れている。その河口付近は、沼沢地で鳥が多く鳥を取るため鳥取部が置かれ、それが今の鳥取の呼び名となったといわれている。鳥取市内を流れる袋川を少し遡っていくと豊かな水田地帯が広がり、西に「面影山(おもかげやま)」、東に「曽瓦山(こしきやま)」、そして南に「今木山(いまきやま)」と因幡三山が姿を現す。その中央にあたる国府町中郷地区に奈良・平安時代に因幡国府が置かれていた。発掘調査によると国庁跡は東西百50メートル、南北2百13メートルの広さで正殿・後殿・南門などの建物跡が残っていた。
 古くから、県内の淀江、東郷地、湖山池などの潟湖を港として大陸と海上交通が行われていたが、因幡の袋川流域では弥生時代中期から水田の開拓が始まっており、平安時代の「和名抄(わみょうしょう)」によると、因幡の稲田は7千9百1千町歩、収穫量は71万束であったといい、20束を1石で計算すると3万5千5百石となり、稲作技術が発達していたことがうかがえる。ちなみに平安時代の因幡の人口は12万2千人であったと推定されている。当時の国の大きさによる格付けによると因幡の国は上国とされ、京からの距離による分類によると近国とされている。因幡の国を含め、山陰地方は古代大陸の進んだ文化を受け入れる日本の表玄関であり、「続日本書記」によると天武天皇2年(697年)に因幡の国から銅鉱が献上されたとあり、稲作のほか金属精錬についても先進地であった。律令体制が確定した後にあっては、日本国防の最前線であり、新羅遠征計画により船百45隻の建造が命じられたりしている。因幡の国は、朝廷からも重要拠点として意識され、天皇の即位後に行われる大嘗祭の際、新穀を献上する「悠紀(すき)の国」と「主基(すき)の国」に3回も指定されている。
 このような因幡の国司に任命された名前の知れた人はかなり多いが、その中でも最も有名な人物は「万葉集」の編纂者ともいわれている「大伴家持(おおとものやかもち)」であろう。天平宝治2年(758年)因幡国守に任命された家持は、翌年正月元旦因幡国庁に国司や郡司を集めた新年祝賀会の席上で万葉集の最後に置かれた歌
 新(あたら)しき 年の始めの 初春の 今日降る雪の いや重(し)け 吉事(よごと)
を詠っている。
 因幡国庁も鎌倉時代に入るとやがて崩壊・消滅し、大陸との交流も途絶えて上古の繁栄も忘れ去られてしまったが、鳥取県内では最近の国際情勢の変化を受けて大陸との交流を活発にし、新しい環日本海時代、再び山陰が表日本となる時代の幕開けを求める声が上っている、その日の近いことを県民とともに願っているところである。

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