初代司法卿 江藤新平

最終更新日:2016年2月23日

江藤新平は,天保5年(1834),佐賀藩下級藩士の長男として出生し,16歳で藩校弘道館に入学して猛烈に勉強に励んだ。そして,副島種臣の兄で,尊王攘夷論を唱道していた枝吉神陽に傾倒し,神陽が結成した「義祭同盟」に,大隈重信(内閣総理大臣を2回歴任,早稲田大学創立者),副島種臣 (外務卿,書家),大木喬任(初代文部卿,第2代司法卿)らとともに参加した。 その後,時勢の変遷を的確に見据えた新平は,開国通商による富国強兵を主張するに至り,23歳の時に作成した意見書「図海策」では,民衆生活の尊重を立論の根拠とした実に適切な意見を理路整然と展開している。 その後時局が混乱を極める中,28歳の時に国禁を破り脱藩し京都に向かい,長州藩桂小五郎や伊藤博文,公卿姉小路少将公知と接触する等,積極的に京都の情勢視察を行い「京都見聞」を著した。 帰国後,前藩主鍋島直正の厚情により死罪を免れ永蟄居(無期限謹慎)の刑に処せられたが,慶応3年(1867:33歳)の大政奉還を機に直ちに赦免され,京都に急行して政治の表舞台に飛び出し,佐賀藩のために尽くした。

前列右から3人目が江藤新平。司法省高官とともに<BR>                         【佐賀県立佐賀城本丸歴史館蔵】                         前列右から3人目が江藤新平。司法省高官とともに
【佐賀県立佐賀城本丸歴史館蔵】

新平の先見性と理論性は,黎明期にあった新政府にとって必要欠くべからざる才能であり,明治初期の混乱期に当たり,特にその才能は新国家の骨格作りや民法,憲法等法令の整備等に遺憾なく発揮された。 明治5年4月(39歳の時)には,現行の法務大臣・最高裁長官・国家公安委員長に相当する初代司法卿に就任して司法制度の創設に取り組むことになり,行政から独立した全国統一の司法権を構築し,「人民ノ権利ヲ保護スル」ことを目的として,同年6月に「司法省の方針を示すの書」を執筆し,これに基づき,同年8月には日本の司法制度の土台ともいうべき司法職務定制を制定する等の改革を実施した。 以後新平は,司法制度を整備するとともに,司法権の自立と法治主義の確立のために奔走したが,その最中である明治6年4月,その任を解かれ,参議として新政府の中心で働くことになる。 その年の10月,新平は,いわゆる征韓論争を契機とする明治6年の政変で,西郷隆盛らと共に参議を辞職し,翌年2月には佐賀七賢人の一人である島義勇と一緒に佐賀の役に加担して敗れ,4月13日には死刑を言い渡されて即日処刑された。

【佐賀県立佐賀城本丸歴史館蔵】【佐賀県立佐賀城本丸歴史館蔵】

新平,41歳の時であり,その死は,彼の華々しい業績と比べると,あまりに唐突であっけないものであった。その劇的で不可解さの残る一本気な男の短い生涯は,多くの人の関心を呼び,関係文書は「江藤家資料」として佐賀県立図書館に整理,所蔵され,学者等の研究の対象(毛利敏彦「江藤新平」(中央公論)等)や小説の題材(司馬遼太郎「歳月」(講談社)等)に取り上げられているが,世間一般には,佐賀の役で反乱者の烙印のもとに処刑されたことが有名であるため,冷たい目で見られがちである。今,佐賀県人の間では,その汚名をそそぎ,「民権の確立」に奮闘した歴史的偉材として,その功績を高く再評価すべきであるとの機運が高まっている。  

佐賀地方検察庁 管内検察庁の所在地・交通アクセス
〒840-0833 佐賀市中の小路5番25号
電話:0952-22-4185(代表)