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  第4回 「女紅場」知ってはる?

 京阪「神宮丸太町」駅で降りて,丸太町橋の西詰南側にある石碑です。

石碑


◇「女紅場」ができたころの歴史



石碑
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      1868年(慶応4年),永く続いた江戸幕府の時代も終わり,年号が「明治」
    と改められました。
      江戸は,東の京都という意味の「東京」に改められ,これに対して,京都は西の
    京という意味の「西京」と呼ばれた時もあったようです。
     平安時代から千年にわたって栄えた都が東京へ移り,たくさんの人々と一緒に政
    治や経済の中心も東京へ移ってしまい,残された京都の人々にとって,遷都は未来
    に対する希望を失うことになったようです。
      東京遷都以来の衰退した京都を復興されるために,琵琶湖疎水の建設を中心とし
    た産業の発展や全国で初めての数々の教育制度が進められ,小学校,中学校,女学
    校,美術学校などが創られたのです。
      その女学校が「女紅場」なのです。



                               ◇「女紅場」誕生のはなし


      石碑
     石碑には,「女紅場址・明治5年に開設された京都府立京都第一高等女学校創立当初の名称」とあります。
     「女紅」というのは,女工,女功,女巧とも言われて,裁縫や織物などの女性が得意とする手芸・手工であり「じょこう」ともいいますが,糸に関わる艶やかな女性の手仕事であることから「にょこう」と読まれています。
     この女性の仕事を教えたところが「女紅場」なのです。







    鴨沂高校

    京都で最初にできた女紅場が英語と女紅の学科をもった「新英学校女紅場」で,後の「京都府立京都第一高等女学校」であり,現在の「京都府立鴨沂高等学校」です。
     女紅場では,裁縫や織物などの手芸・手工のほかに写生画,日用算術,習字なども教えていました。
     日本で教育制度の整備が急がれていた明治時代の初めに,京都では女子教育も進められていたことから,当時の京都の復興にかけた先人の必死な思いが感じられます。
                   写真提供:鴨沂高等学校