寛政蝦夷の乱

最終更新日:2016年1月6日

元釧路地方検察庁検事正 赤池 功
 根室半島の先端,はるかに国後島を望み,歯舞諸島を指呼の間に見る納沙布岬に,「横死七十一人之墓」と刻まれた高さ約119センチメートル,幅約80センチメートル,厚さ約30センチメートルの墓碑が高さ約80センチメートルの台座の上に建てられている。「寛政蝦夷の乱」 の犠牲者71人を供養するため,文化9年(1812年)に建立が企てられたものである。
 この乱は,寛政元年(1789年)5月,まず国後島のアイヌがほう起し,さらに対岸のメナシ(現在の羅臼及び標津付近)のアイヌもこれに合流して和人を襲撃したものであるが,アイヌは,この地方の「場所請負人」として強力な支配権を握っていた飛騨屋久兵衛の支配人,通辞 (アイヌ語通訳),通船の船乗りら70人及び松前藩士1人の和人合計71人を殺害した。松前藩は,討伐隊を派遣して制圧し,首謀者ら37人を処刑した。アイヌの代表は,松前に出向いて陳謝服従を誓い,この乱は結末を見たのである。
 この乱の原因については,交易における和人の横暴及びアイヌに対する酷使・虐待がもたらした結果であるといわれているが,背後にロシアが関係しているといわれたことから,幕府も隠密を派遣して直接調査を行うなど,松前藩領内としての問題にとどまらず,我が国内の一大騒動とされたものである。
 ところで,前記墓碑は,大正元年(1912年)12月,漁師中村某が納沙布岬に近い珸瑤瑁(ごようまい)沖で操業中,漁網にかかって引揚げられたものであるが,表面に「横死七十一人之墓」 と刻まれ,背面には,「寛政元年五月,此地の蝦夷賊徒に殺害された七十一人の合葬のため,文化九年四月,これを建てる。」 旨刻まれていた。誰がどこで造り,どこに建立しようとしたのか,なぜ海中にあったのかは明らかでない。おそらく横死者を合葬供養するため松前方面から国後方面にでも海上輸送の途中,船が難破して海中に没したものと思われる。それがくしくも,ちょうど100年後に引揚げられたものである。
 発見後,珸瑤瑁の墓地入口に建てられていたが,昭和42年,根室市文化財に指定され,翌43年,現在地に移設されたとのことである。
 この墓碑が造られてから納沙布岬に建てられるまでの数奇な運命と,墓碑が語る史実を知るとき,この墓碑が漁網にかかったのは,単なる偶然ではなく,非業の最期を遂げた71人のおん念,無念,その遺族の悲嘆及び建立を企てた者の思いのしからしめたものではなかろうかとの感を深くせずにはいられない。

 本寄稿文は,研修(第491号 1989年5月号)【とびらの言葉】に掲載されたものを誌友会事務局研修編集部の許可を得て転載しております。

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