吉良平治郎殉職の碑を訪ねて

最終更新日:2016年1月6日

元釧路地方検察庁検事正 楠原一男

 青く澄んだ太平洋を見下ろす釧路町宿徳内の小高い丘に,吹雪をついて郵便の逓送に出かけ,ついに殉職した吉良平治郎の記念碑が建っている。
 平治郎は,1886年(明治19年)2月3日に釧路在の桂恋(現在の釧路市)で生まれ,幼いころ父を亡くし,母は再婚したため親戚で育てられた。15歳のころから左手,左足が不自由になったが,平治郎は山から木を伐り出して炭を焼くなどして暮らしていた。30歳過ぎてから妻を迎え,釧路の春採コタン(現在の釧路市春採)に住んでいたが,1922年(大正11年)1月,釧路郵便局の臨時逓送人として雇われた。
 平治郎の職務は,釧路郵便局と昆布森郵便局間およそ16キロメートルの道のりを郵便物を背負って運ぶことであるが,この責任ある仕事に何よりの誇りを持っていた。平治郎が臨時逓送人として雇われてから3日後の1月19日の夜更け,吹雪のため深い雪道であったが何日分もたまった郵便物を早く届けないと困る人もいるのではないだろうかと思い,郵便行のうを背負い,杖をついて釧路郵便局を出発したところ,その途中で暴風雪になり,釧路から約12キロメートル進んだ宿徳内に通ずる坂道にさしかかったところ暴風雪はいよいよ激しくなり,その上,襲ってくる飢えと,身を切るような寒さに耐えかねて雪の中によろめき倒れた。しかし,公の職務であること,郵便物の大切であることを思って勇気を奮って起き上がり,着ていた外套を脱いで郵便物が濡れないように行のうを包み,そうして帯を裂いてその上にしっかりと結び,さらに,唯一の力として携えてきた竹の杖を傍らに立て,先端に手拭を結んで目印とした。それから,救助を求めて坂下の方へ歩き出したが,僅か200メートル進んだところで腰のあたりまである深い雪と吹雪は平治郎を埋めてしまった。
 平治郎の遺体が捜索の人々により発見されたのは遭難して6日目の1月25日であるが,郵便物は掛けてあった外套に守られて少しの損傷もなかった。
 その強い責任感は,人々を感動させ,1933年(昭和8年)文部省発行の小学校修身書の中の第10課に「責任」という題で取り上げられ,1971年(昭和46年)2月発行の小学校第4学年用道徳副読本「新しい生活」(北海道版)にも「吹雪をついて,吉良平治郎」の題で掲載されている。
 死を目前にしながらも郵便物を自分が後で捜しに来ても分かるように杖に目印の手拭を結んでおいた平治郎の冷静かつ的確な判断と,命にかけても郵便物を守り責任を果たそうとした平治郎の強い使命感に頭が下がる思いがした。

 本寄稿文は,研修(第584号 1997年2月号)【とびらの言葉】に掲載されたものを誌友会事務局研修編集部の許可を得て転載しております。

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