厚岸・国泰寺

最終更新日:2016年1月6日

元釧路地方検察庁検事正 佐藤信昭

 北海道の東太平洋岸,釧路市から東方46キロ先に,蠣(かき)の養殖で有名な「厚岸(あっけし)」という人口約12,000人の小さな漁港町がある。この町には,1804年(文化元年)に建立された臨済宗鎌倉五山派「国泰寺」があり,山門の扉には「葵の紋」が刻まれ格式の高さを感じさせる。
 また,同寺はこの地方の桜の見頃である5月中旬から下旬にかけて,道内各地から多数の花見客が訪れる桜の名所としても知られており,取り分け1830年(天保元年)に奥州石巻から移植されたと伝えられている高さ10メートル,幹周り3メートルのオオヤマザクラの古木は,樹齢170年を超えた現在でもたわわに花を咲かせており,来訪者の目を楽しませている。
 「国泰寺」は,江戸幕府が,当時の箱館奉行からの進言を容れて北海道の東太平洋岸に建立した寺で,有珠(うす)の浄土宗「善光寺」,様似(さまに)の天台宗「等じゅ院」とともに,蝦夷三官寺と呼ばれている寺の一つである。これら蝦夷三官寺は,東蝦夷地入りした武士らの,極寒の地での死や病に対する不安を除去し,死者を弔い,安心立命を図るとともに,当時,南下政策を採っていた露国からの蝦夷地防衛及びアイヌ民族の教化等を目的として建立されたものと伝えられている。
 「国泰寺」には,全36帳,平均70葉にも及ぶ編年体で綴られた9世60年にわたる歴代住職の日記集である寺院記録「日鑑記(にっかんき)」が保存されており,明治以前の道東の和人等の生活状況を記した貴重な資料として,道の文化財にも指定されている。
 この中には,厳しい自然環境の中にあって,春の一番船から晩秋の仕舞船にいたるまでの船頭や生産と流通の末端拠点である会所の役人たちの日々の生活の一端が記され,宿の世話をし,野菜を作り,酒を造る生活者たちの様が,生き生きと描写されている。また,ペリーの黒船来航に先立つこと22年前の1831年(天保2年)に,豪国の捕鯨船「レディー・ロエナ号」が船の修理と食料の補給を要求した際,これを拒んだため松前藩と交戦となった様子や1843年(天保14年)に発生した北海道東方沖地震の際の津波による大被害の様子も記され,天候・災害の記録書としての役割をも果たすなど,道東における史実の記録書としての価値を十分に備えている。
 「国泰寺」は,現在の釧路地方検察庁の管轄地域とほぼ同じく,襟裳岬から北方四島にまで及ぶ広大な区域を管轄して活動していたものと考えられており,鎌倉五山に属する末寺から選抜されて派遣された住職及び役僧は,7年とされていた任期中に,くまなく管轄区域全域の会所を巡回し,和人・アイヌ民族の法要を行い,彼らの安心立命を図る任務が与えられていたが,交通手段のない当時のその行程がいかに難行苦行であったかは,想像に難くない。
 江戸幕府時代の「国策」を執行すべき官としての立場と「宗教人」としての個人との狭間で,志操堅固にして教養豊かなこれら官僧たちの生き様に,未開の北の大地に降り立った先人の偉大さと逞しさを,そして,何よりも某かの壮絶さを感じずにはいられない。

 本寄稿文は,研修(第654号 2002年12月号)【とびらの言葉】に掲載されたものを誌友会事務局研修編集部の許可を得て転載しております。

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