「ヒカリゴケ」と「ひかりごけ」

最終更新日:2016年1月6日

元釧路地方検察庁検事正 齊藤雄彦

 知床半島の羅臼町に,ヒカリゴケが群生するマッカウス洞窟がある。ヒカリゴケは,暗く湿った場所に自生するこけで,原糸体と呼ばれる部分にレンズ状の細胞があり,これが暗所に入ってくる光を反射して金緑色に輝くのである。
 武田泰淳の代表作のひとつに,昭和29年に発表された小説「ひかりごけ」がある。この小説は,戦争末期の昭和19年1月,この洞窟から約30キロ北東の知床半島先端に近いぺキンノ鼻付近の無人小屋で実際に起きた食人事件にヒントを得た創作で,事件の舞台をこの洞窟に移し,事件の描写と刑事裁判仕立ての法廷ドラマを主な内容としている。その筋立ては,厳冬に知床沖で遭難し,人里離れたこの洞窟に避難した軍徴用漁船の船長が,飢餓のため,先に衰弱死した船員の死体を食し,これが洞窟から脱出して救助された後に明らかとなって裁判を受けるというもので,法廷ドラマは,船長を非難する検事と船長のやり取りを中心に戯曲形式で展開されている。その中で,ヒカリゴケ同様の金緑色の光が,人肉を食した者の背後に輝く象徴的モチーフとして設定されており,その輝きが,法廷の船長の背後のみならず,いつの間にか,検事,判事,弁護人,そして傍聴人の背後にも現れるのである。
 この小説が有名になったことから「ひかりごけ事件」と呼ばれるようになった実際の事件は,公刊物によれば,知床沖で遭難した船長が,船員一人と無人小屋に避難したものの,積雪と断崖に阻まれて脱出にも失敗し,飢餓のため極限状態に陥った中で発生している。船長は,その後,海岸に押し寄せた流氷伝いに,数日をかけて脱出して救助されたが,死体損壊の罪で起訴された。裁判の結果,心神耗弱が認定されたものの,裁判所は,船長の行為を社会生活の文化的秩序維持の精神に甚だしくもとるものと認定した上,弁護人の緊急避難の主張に対しては,避難行為によって生じた害が,避けようとした害を超えているとして認めず,懲役1年の実刑判決を下したとのことである。
 過日,この洞窟を訪れる機会があった。巨岩に覆われた洞窟は,落石の危険のため最奥部への立入りは制限されているが,それでも一部にヒカリゴケの輝きを感じた。海岸沿いにさらに約20キロ北東方向に走り,車道の終点まで足を伸ばした。はるかぺキンノ鼻方面の海を望見しながら,作家がヒカリゴケの輝きに象徴させたものと,服役後も長く存命であったという船長の心に思いを致した。

 本寄稿文は,研修(第747号 2010年9月号)【とびらの言葉】に掲載されたものを誌友会事務局研修編集部の許可を得て転載しております。

釧路地方検察庁 管内検察庁の所在地・交通アクセス
〒085-8557 釧路市柏木町5番7号 釧路法務総合庁舎
電話:0154-41-6151(代表)